『極地90 第461号 平成22年3月 日本極地研究振興会, P20-27

 

 

我が国の北極海観測研究 〜その歴史と将来に向けて〜

 

Observational Research on Arctic climate oceanography

- histories and toward hopeful future -

 

 島田浩二 (東京海洋大学)

Koji Shimada (Tokyo University of Marine Science and Technology)

 

 

 

(1)『北極海、それは近代海洋学発祥の洋(うみ)』

北極海研究のはじまりは、ナンセンによるフラム号漂流横断観測(1893-1896年)に遡る。この航海は、北極点を目指す探検ではなく科学航海であった。北極海だけに特化した科学航海ではなく、エクマンによる海洋への渦度注入の理論を始め、世界の大洋に共通する風成海洋大循環理論の基礎を築いた科学航海であった。また、ナンセン採水器の考案など海洋観測技術にも貢献した。フラム号は、北極のみならず、1912年のアムンセンによる南極到達時にも活用されており、南北両極の科学調査に活躍した。アムンセンは、その後、新船モード号にて北極横断航海を試みたが、ベーリング海峡北部海域から北極海内部に漂流できず、夢は叶わずに終わった。モード号による北極海漂流航海は失敗に終わったのかと振り返ると、そうではない。モード号には、研究者が乗船し、ベーリング海峡北部の北極海の観測研究が為された。その研究者とは、若き日のスベルドラップである。彼は、1940年代後半、大洋の海洋表層循環理論を構築し、その後、スクリップス海洋研究所の所長を務めた。海洋物理学分野にはノーベル賞はないが、最高の栄誉ある賞は、スベルドラップ・ゴールドメダルである。このように、北極海のフィールドに出て、真の北極海を知った研究者らにより世界の大洋に共通する近代海洋学が発展してきた歴史がある。世界の大洋に共通する基礎理論が北極海から生まれてきたことから分かるように、北極海ではなく、世界七つの洋(うみ)の1つである北極洋(Arctic Ocean)と呼ぶのが正しい。

 

第二次世界大戦終了後、北極海研究は冷戦の影響を受け、次なるステップへの一歩は、冷戦崩壊まで待たなければならない状況になった。南極科学委員会の発足から大きく遅れて、1990年に北極科学委員会(IASC)が設立される。これを契機に、北極海での科学調査が本格的に再開した。また、冷戦崩壊以前はほとんどなされなかった観測データの公開も進んだ。特に、第二次世界大戦後、公開されてこなかった旧ソビエトの海洋観測データを中心に編纂された、Arctic Ocean Atlas 1997年(冬季データ)、1998年(夏季データ)に公開され、足踏み状態にあった北極海研究が一気に進展した。我が国でも、1990年に国立極地研究所には北極環境研究センターが設置され、同年、海洋科学技術センター(現海洋研究開発機構)では振興調整費による北極研究が開始される(前身となる氷海研究については、前年の1989年に開始されている)。管轄省庁の異なる2つの組織で始まった北極研究は、その後、それぞれの道を歩む。

 

 

(2)『我が国における北極海洋研究を振り返って』

 

【写真1】 越冬観測に用いられたカナダ砕氷船デグロシエ(1997101日。SHEBAサイト到着直後。島田浩二撮影)

 

 

冷戦終結以後、我が国の北極海の海洋研究は、国立極地研究所、海洋科学技術センター(現海洋研究開発機構)の2軸を中心に推進されていった。国立極地研究所を中心とした研究チームは、北極海に出現する持続的なポリニアにおける生物分野の研究をカナダなどの研究者とともに推進してゆく。1990年代には、ノースウォーター・ポリニア(グリーンランドの西方海域)の研究プロジェクト(NOW)、引き続き2000年はじめには、バスラスト・ポリニア(北米大陸カナダ沿岸域)の研究プロジェクト(CASES)に参画し、多くの成果を収めた。一方、海洋科学技術センターは、北極研究グループ発足当初は、気象研究を中心とした活動が行われていた。北極気候研究に密接に関連した海洋物理学研究に大きく踏み込むきっかけとなったのは、1997-1998年に実施された、北極海表面熱収支観測プロジェクト(SHEBA)への参画であった。参画が決まったのは、観測開始年の前年である1996年であった。1996年は、前述のArctic Ocean Atlasもまだ公開されておらず、北極海は、どこでも同じような構造を持つ「静かな海」であるという時代であった。深層水形成域の近くにあたる大西洋側北極海の現代海洋観測は、冷戦終結直後の1990年代初頭からドイツ、スウェーデンが中心となり推進されていた。その背景には、1980年代終盤に、北大西洋から流入する湾流の末裔である北大西洋水の高温偏差が観測されていたことによる。1990年前後のレジームシフトが話題になっていた時代であり、低緯度海域では、エルニーニョ監視網を構築すべく、TOGA(熱帯海洋とグローバル大気)プロジェクトが走っていた時代であった。確かに、異常高温の北大西洋水の北極海への流入は大西洋側北極海の海洋構造に影響は与えた。しかし、北極海全域について影響があったのかというと、そうではない。1990年代終盤を迎え、気候研究が主となった時代、TOGAのように、グローバル気候の視点で、北極海研究を考え直す必要があった。そこで、筆者らが注目したのは、北極海の大部分の海洋表層を占める水であり、その循環と変動であった。大西洋側から流入する大西洋水の水温は高いが、塩分も高いため、北極海内部では、水深300m以深の深度に潜り込んでしまう。つまり、海面や海氷に大西洋水の変動の影響は現れにくい。これに対して、太平洋側から流入する海水は塩分が低いため、表層を占める。従って、北極海の海氷に影響を及ぼす海水は、太平洋側から流入する海水であり、その循環と変動を知る必要があると考えたのが、日本のサイエンスの骨子であった。北極海内における太平洋水の循環を観測で捉えようと思っても、夏であっても北極海盆のほぼ全域が、厚い海氷に覆われた当時、北極海広域に渡って観測網を展開することは、資金の面からも人的リソース面からも不可能であった。そこで、一点突破全面展開のための最初の一点を十分吟味した。過去のデータはほとんどなかった。しかし、1992-94年に行われた、漂流ブイによる流速データがあった。残念なことに、漂流ブイに水温・塩分計が取り付けられていたものの、不具合がありデータは取得できていなかった。その流速データの中に、最初の一点を見出そうと試みた。実は、筆者は実際の観測データ解析をしたのは、この流速データが最初であった。それまでは、地球流体力学の理論研究しか行ったことが無かった。漂流ブイの流速データを見て、奇妙な特徴に気づいた。それは、海底地形のパターンが循環を規定している点であった。特に、海氷下の太平洋からの海水で構成される表層海洋では、ノースウインド海嶺の東斜面に明瞭な強い北上流があることが分かった。海嶺の東斜面に拘束された流れの出現ついて、地球流体力学的には見透したが、厳密に解を求めるまでには当時至っていなかった。後に、現北海道大学の須股氏との共同研究でこの点を明らかにした(Sumata and Shimada, 2007)。南から来た海水が北上するところ、すなわち、北極からすれば低緯度の温かい水が極寒の北極海中央部に向かって流れてゆく海域である。この海域こそ、将来の全面展開に向けての最初の一点突破にふさわしいと考えた。具体的には、ノースウインド海嶺を軸にした、観測計画を立案した(図1)。

@    太平洋水の北極海内部での流路に沿った係留系の展開、

A    1992年に設置し、観測機能を失った海洋観測用漂流ブイのセンサー及びバッテリー交換、

B    ノースウインド海嶺を横切るルートを取る新たな海洋観測用漂流ブイの設置、

C    上記の係留系及びブイ設置地点への経路上での水温塩分観測。

であった。

 

 

【図1】 SHEBA1997-1998年)観測時の海洋科学技術センターの観測網。SHEBAは北極海カナダ海盆における越冬観測プロジェクトである。

 

 

通常、年中海氷に覆われていたノースウインド海嶺に設置した係留系を回収するために、1998年には、ROV(遠隔操作潜水艇)を利用し回収する方法で臨んだ。係留系のトップにあるフロートにROVのリールに巻いたロープを掛け、引きずりあげる回収方法を準備した。しかし、回収時、係留系設置点は、10月中旬であるにもかかわらず、見渡す限り海氷の無く北極海らしからぬ光景であった。何のことはなく、通常の回収方法で容易に回収できてしまった。1997年から1998年の変化は、想像もしていなかった変化であった。回収した係留系データから、やはり、温かい太平洋の水はノースウインド海嶺に沿って北上していることが確認され、北極海の名も無き海流を知ることができた。この観測を、1997-1998年に実施できたことは、大きな意味があった。単に、海洋物理学的に海洋循環システムを知るだけに留まらない、海洋が支配する北極の海氷減少のメカニズムを知る上でなくてはならない実観測データになったからである。

 

1990年代後半の時代は、北極振動の研究が盛んになり始めた時代であり、北極海海氷面積は北極振動で説明できると考えられていた。北極振動指数が正の偏差を示すときに、北極海を横断する海氷の速度が増し、フラム海峡から出てゆく海氷が減るといった解釈であった。しかし、1997-1998年の海氷激減時には、北極振動指数は低下し、ニュートラルの状態にあった。つまり、大気の変動である北極振動以外の要因がこの激減を支配しているとの認識に至っていた。海氷は大気と海洋の狭間に存在するものであり、大気側に要因を見出せないのならば、海洋に要因があるはずである。1998年夏に海氷がもっとも後退した場所は、まさに、係留系設置ポイントであったノースウインド海嶺域であった。1997-1998年の観測では、北極海内部では、海流名のついた海流も無い状態で、循環像が描ければ良しと考えていたが、それだけで、得たデータの価値が終わるということは無かった。ノースウインド海嶺を中心とした観測データは、ダウンロードできるルーチン客観解析データにはない、人工衛星観測でも見えない、海氷下の海洋の著しい変化を捉えていた。北極海の海氷下の水温が急激に上昇していたのである。上昇したといっても高々、1℃程度であった。しかし、海水はその比熱が大きく、1℃の温度上昇であっても、熱量にすると約140MJ/m2の増加であった。この増加分は、地球表面から宇宙空間に至るまでの全大気を約13.5℃上昇させる熱量と等価であった。10℃以上も気温が上昇すれば、海氷は存在し得ないことは容易に想像できる。IPCC4次報告書のA1B(現在の2倍のCO2濃度で一定になるシナリオ)のケースであっても、北極海の温度は7度程度の上昇である。すなわち、1997-1998年に観測された、ノースウインド海嶺での海の温暖化は、今世紀末の温暖化予測を既に越えた変化を示していたといえる。温暖化という言葉が市民権を得た時代になった。英語で言うと、“global warming”である。日本語の温暖化は、意味が深い。温暖化のは水があたたかいと言う意味である。一方、温暖化のは空気が暖かい、陽射しがあたたかいという意味である。

 

一点を突破する意気込みで臨んだ観測は、次なる展開への布石になった。北極の温暖化とは何か? 極域が地球気候に果たす役割は何か? ということを思考させ、次なる観測研究を展開するよう、北極が教えてくれたのかもしれない。1997-1998年の観測は、持ちうるツールを最大に活用したが、全体をカバーするには、不足している面があった。ジグソー・パズルで重要なピースがどうにか並び、定性的に理解できるほどのものであった。1997-1998年の観測を終える時期。原子力船「むつ」を改造した「みらい」が就航した。本格的に我が国の観測船で北極海を観測できる時代を迎えることになる。「みらい」は耐氷船であって、砕氷船ではない。海氷が消失した海域(開水域)の詳細の調査は可能である。しかし、開水域の観測研究だけでは、変化してしまった北極海を後追いするだけのものになってしまう。海氷が消え去った海域の観測と、次なる変化を捉える氷海域での観測を同時に行わねば、次なる展開が見えなかった。そこで、多くの砕氷船を有するカナダとの共同観測研究に踏み出した。日本とカナダは似た事情があった。それは、ロング・タームで研究を行える風土が共通していることであった。前述の米国主導のSHEBA観測は、わずか2年の期間に集中的に投資されるものであった。確かに、多くの結果、論文がSHEBA観測を元に公表された。しかし、1997-1998年の変化を見てしまった以上、短期集中プロジェクトのみで北極を知ることは困難であろうと思われた。意味のある継続、モニタ観測が北極で必要であった。継続観測の中に、重要なプロセス研究を内在しながらではあるが。カナダとの共同は、その旗手を務めてみようという試みであった。1999年から、共同観測に向けた動きを開始した。単なる共同観測事業ではなく、練りに練った計画を実現する観測研究とすべく、2002年の共同観測開始まで3年をかけた。どのような、観測セクションを維持すれば、真の北極の変化が分かるのかについて、真剣に議論した。その結論は、目指せ北極点といった観測セクションではなく、海洋循環の構造とその変動、海氷への影響を確実に捉えることができる観測セクションであった。前述したように海底地形が海洋循環を規定しているため、海氷運動と同じような循環パターンを海洋は呈していない。1990年代に得た数少ないジグソー・パズルのピースと理論的な考察に基づき、西経150度、140度に沿った南北線、北緯75度、78度を中心とする東西線を軸とすることを決めた。実は、この提案に異を唱える意見があったが、この提案を受け入れてくれるよう説得した。一旦、観測セクションが定まれば、海洋観測の場合、それが、長らく継続することになる定線になる(図2)。南極海での海洋観測も、継続的な定線化して今日に至っている。世界の大洋を縦断・横断し全休の海洋循環と構造を理解することを目指した世界海洋循環観測実験(World Ocean Circulation Experiment: WOCE)で設定されたセクションの再観測がなされている。それにより、海洋の変化が全球規模で捉えられるようになっている。WOCEは世界の大洋観測であったが、唯一つ含まれてない大洋があった。世界七つの洋(うみ)の一つ北極海である。WOCEのセクションではないが、北極海カナダ海盆に設定したセクションは、それと同じ価値を持っている。2002年より今日に至るまで、継続的に観測が実施されている。その結果、海氷激減が起こる前には、必ず海洋に前兆的な変化が起こっていることが分かった。1998年の海氷激減のインパクトは今日では、記憶から忘れ去られているが、2007年の激減はまだ記憶に新しい。2007年夏の大気・海洋環境が2007年の激減をもたらしたわけではない。2007年の前年の2006年まで、海氷下の海洋の熱量は著しく増加していた。熱が蓄えられているだけでは、爆発的な変化は起こらない。急激な変化が起こるのは、蓄えられたものが一気に放出されるときである。2007年夏を迎える前の冬には、この爆発的な熱のリリースが起こっていたことが継続的な海洋観測データから見出せた。アイス・アルベド・フィードバックや、太平洋側北極海に出現した夏季の東高西低の双極子構造をもつ大気圧場による南風も海氷減少に作用したであろう。そもそも海氷で覆われている海域で何故、アイス・アルベド・フィードバックが始動したのか? 最初に海氷の減少が起こらなければ、次なる正のフィードバックは始動しない。また、東高西低の双極子構造をもつ気圧場が何故、出現したのか? それが分からなければ、サイエンス・ストーリーとして完結しない。元に戻らない北極海のドミノ倒しのような変化を理解するためには、最初に倒れる一枚のドミノを見出すことが重要である。近年の急激な海氷減少を振り返ると、海洋の中に、最初のドミノ倒しの一枚はあったと言える。

 

 

 

 

【図2】 2002-2004年の観測点。2002年は、「みらい」、カナダ砕氷船「ルイ・サンローラン」、「ローリエ」の三船がバローに集結し、観測を行った。三船の間をボードで行き来した。

 

 

 

日本にとっては、2回目の国際極年となった2007-2008年、北極海は激変の時期に重なった。国際極年最終年度である2008年には、我が国の観測船「みらい」が国際極年としては日本船で始めて、北極海内部にまで入り込み観測を行った。内部といっても、カナダ砕氷船と連携して北極海カナダ海盆、そしてさらに西のマカロフ海盆をカバーする東西線が主軸であった。10余年前にSHEBA観測の時には、理想であったが実現できなかった観測が国際極年で実現できた(図3)。一点突破し全面展開してしまうと、次なる全面展開を真剣に模索しなければならない。全面展開できたからこそ、次なる展開は、さらなる全面展開ではなく、種を蒔き、次の一点を切り開いてゆくことではないかと考えている。

 

 

 

【図3】 2008年、国際極年北極観測の観測点。「みらい(黒丸)」とカナダ砕氷船「ルイ・サンローラン(白丸)」によって行われた観測点。

 

 

 

 

【写真3】 日付変更線付近にて辛うじて夏を越すことが出来た多年氷に鎮座するホッキョクグマ(2008925日 島田浩二撮影)。

 

 

 

 

【写真4】 日付変更線付近に残った多年氷のバンドを越え、西経領域に戻る「みらい」(2008930日 島田浩二撮影)

 

 

 

(3)『将来に向けて』

気候システム理解のための北極海研究について、歴史を辿りながら紹介してきた。10年前は、日本国内では、学会発表を行っても、人のまばらな朝一番の講演が指定席であった。いまや、川合氏、須股氏など若手研究者が海洋学会で賞を頂くほど、注目を集める分野にまで発展した。1997-1998年のSHEBAを皮切りとした、日本の北極海研究(特に、気候学分野)は一応の成功を収めたのではないかと考えている。インターネット社会になり、データも手に入れやすくなった。観測を伴う研究は、論文生産と言う点では非効率である。若い研究者にとっては、任期制の雇用が主となる時代、生産性を上げなければ生き残れない時代になってきている。しかし、真の地球環境を知るには、真の海を知るには、簡単にダウンロードできるデータを用いた結果だけでは真髄をついていない面がある。腰を据えた地道な研究が行える環境が必要であると考える。極域観測には、多大なロジスティックに関わる仕事が待っている。極域研究を推進するに当たって、主要な研究機関は、自らの研究計画を実現させるだけでなく、極域研究界を牽引すべく、観測機会の創出を行っていただければと思う。北極の激的な変化が注目されているからといって、迎合し、流行を利用するような気持ちではならない。初心に戻って、次なる一点を考えるべき時代であろう。また、将来のためには、現在の状況では十分とはいえない極域海洋教育を充実させる必要がある。理性を持った、極域の研究・教育を考える委員会が必要であろう。50余年前の国際極年・国際地球観測年で「宗谷」による南極観測が開始された時代、小学生が、自分の小遣いを募金し南極に夢を持った時代だった。記録に残る成果ではなく、記憶に残るマイルストーンとなる観測・研究成果を世に送り、そして次世代に夢を抱かせられるぐらい、夢を持って極を極めるよう歓びを享受できる時代になればと思う。